投げ渡したそれは、深紅の包み紙に金色で刻印された品番が掠れていた。「なんとかって童話の中にしか出てこない、幻のチョコレートだとさ。正真正銘、廃盤だぜ」手に入れるのは苦労したんだと、同じ金をした髪の少年が笑う。ああ、あんたの好きそうな話のネタもあるぜ?片目を伏せて、椅子を探す。「飛び切り美味い紅茶を一杯、これでくれよ」
「もう宵いですよ」鉢植えから離れ、白猫は微笑む。「迷い男が迷わされるなんてなぁ」「狐灯の面と言います。自分の知らない場所へ向かって咲いていく花」細い茎の先に、回り燈籠の四角い蕾が瞬く。「ひでぇな、ミミックじゃんそれ」「とんでもない」これが無いと渡り狐の子は郷に帰れないんです。件の店主は、また少し笑った。(ロイエ+白猫)
そっと耳を傾ければ、不規則な音が割れ鐘のように低くか細く響く。誰にも届かない叫びはいつしか、銀色に錆付いて再び命を与えられた。電子式の扉につく筈の無い冷たい忘れ物は、遠い未来に彼自身の時を開く。どこかの空に佇む足音を想って、件の店主はそれを木箱から小さな網細工の棚へと移してやった。 (白猫独白(+ロイエ) 空想遺品ネタ)
"水底の切手"が、くぷくぷと笑った。旅をする事をやめ、小鳥の絵と一緒に憧れていた海の奥深くに沈んでしまった小さな切手だ。宙から溢れるように、瓶の中身の碧がひとときに濃くなる。『うん、結構。こんな形でもなければ、邪魔出来んからのう』波間を模る白い縁枠を跨いで、泡粒はゆっくりと光を帯びはじめた。
『珊瑚の芽づる音が聞こえる?左様、南まで下ったからな‥‥‥今は、旅の切手に惚れ抜いて毎晩泣き暮らしているという二枚貝の水鏡を借りておる。お主、偶には外の風に宛ててやれよ。では』電報のように、気泡に込められた言葉は弾けて終わった。やれやれと席を立ち、白猫は窓の鍵、それから硝子の蓋に触れた。碧が、また息づくのが聴こえた気がした。(マノン+白猫)
「僕はぁ、そっちには行けないみたい」無形の深い闇を挟んで、扉の握りを引いたまま動きを止めた男が嘯く。くしゃくしゃと掻き回した髪が、光のない空間で磨ぎすぎた刃物のように軽薄な銀を反射する。「あのね、ビジネスにシビアなのは、お互い様だからね」ああまたうまく言えないや、忘れてよ。締め出される間際、死の商人が片手を振った。(グォイ+白猫)
「アノネ、私達も『場所』を無くすのは惜しい訳。そこは安心して」―この撮影に、牽制の意味は無いらしい。つまり、こいつらの行動の意図する所は単なる挑発か‥‥そうでなければ、そのような"趣向"だ。黒服の玉座へご丁寧に護られた奥の座席でキーボードを叩いていた男が、殴りたい程無責任に、気味の悪い笑みを浮かべた。「お待たせ。ね」(グォイ+猫)
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(※ この話は以前投稿した、ほんとうにあった都市伝説設定より『グォイ・チャチュケスク』のゲスト出演作品になっています。また、合同誌として掲載した作品の全文になります。時系列としては過去編になるため若干の設定変更がありますがご了承ください。また、途中に出てくるキャラクターは都ガスのオリジナルモブです。重ねてご理解ください。)
1 アウラモナ島の朝は、万人の予想からすれば遙かに早い。埃濡れの陽光が安っぽい舗装路を黄色く舐めていく側から、軒先だけは何とか”まとも”に取り繕った幾つかの店が、落書きに塗られたシャッターを引きずり寝不足の瞼を開ける。無論、各々の敷地・・・チンケな娼館や掃き溜めじみた匿い屋《バー》のバックヤードに如何なる厄介な荷物を抱えているかを公言しなければならないほど、この島にしがみつく者たちはお人好しではない。そして、しばしば期待されがちな古くさいギャング映画のそれとは裏腹に、詮索好きでなければさしたるドラマも(表立っては)生まれないのが実際の所だった。
この島自体が無法の模倣のようなものだ。名のある組織の出を名乗るものの、実際は荷物の中身も知らないような末端の男が顔を顰めて港に繋がれた洒落たフェリーを睨む。そこから降りてくるのは怖い者知らずの”本国”の観光客達だ。お役人は、雑多に濁った部分を切り離しこの島に掃き捨てにくる。時折、そのジオラマめいた刺激を求めて平和な地から暇人が訪れる。しかし、決して養殖ではない悪意の渦巻くアウラモナの土地を踏んだ、言い換えれば星ゼロ個以下の場所へレジャーに訪れた人間の末路は、数ドルで手に入るようなガイドブックの半ページに書ききれるほど簡単ではないのだが。
2 『その店』がひっそりと建つのは島のふちへ延びる行きっぱなしの道路、その進行方向側だ。間に合わせの船着場から枝分かれしたルートは突っ走ればどれも海へ転げ落ちるラインで引かれた、吹きだまりのような計画性のない道路ばかりだったが来訪者の評判は概ね上々だった。最果ての楽園のどこかで帰り道に迷って少々難儀するか―それさえ大衆じみたハプニングでしかないのは確かであり、却ってちゃちな非現実性を手軽に満たすだけであったが―あるいは思いもがけない、ささいな光景をそのどこまでも乾いた路の先に見つけ、子供のように喜ぶか。海、あるいは大陸を望む絶景を求め、脂を光らせたボンネットの乗用車《トイ》はしばしば無意味にタイヤを回した。
島の上空から見下ろせば、安上がりの刺激を求めて彷徨う彼らの辿る軌道はさながら蜘蛛の巣のようにも見えただろうが、その網の隅へ申し訳程度に腰掛けるいやらしい虫は恐らく餓えとは無縁だったに違いない。
3 彼はいわば人売り・・・無知な新参者を借り取って他の地で放す事で得られる対価で生きる普通の人間だった。が、それは実際の所異なる意味を持つ。彼のただひとつの不幸は、かつて何も知らないまま、他の大多数の人間と同じ事を信じてこの理想の土地にごく普通の服屋を構えた事にあった。一月も経たずに平和な店は他の組が入れ替わり立ち替わりで”荷造り”を行う為の隠れ蓑となり、二月経つ頃には布より先に人を本土へ運ぶ為の輸送手続きを覚えさせられる事になった。やがて手帳からは全うな人間の名前が消え、最低水域での繋がりを張り合う事に躍起になるにつれて、皮肉にも『割のいい』世界が己の頭上・・・この澱んだ蒼穹の元へ広がっているということに気付いてしまった、というのが哀れなる顛末だった。しかしながら、彼の天性の悪運は奇妙にも彼を一介のならず者のみに留めなかった。
彼に会ったならば、正直なところ連想するのはネズミあたりだろう。白痴じみたギョロつく眼は臆病に視線を彷徨わせ、それを覆い隠すように薄い唇が饒舌に弁士じみた台詞を打ち出す。真意のない世辞は相手の心に張り付き、気のいいお節介な隣人としてひとときの間居座ることを成功させる。傍目には品のいい服装は最低限の身なりとして落ち着いているが、良く言えば需要に則す、悪く言えば面白みのない店の内装、並べ立てられた衣服の雰囲気とはどこかそぐわないようにも見える。そもそも用意されている衣服の類が不思議なほど印象に残らないのも異様だったが、それを意識させないだけの違和感は今も目の前でヘラヘラと脆弱な笑みを浮かべる店主(このあたりでふとこの男が存外若い、まあ不健康さを鑑みても年若い事に気付く筈だ)が、顔の半分ほどと腰までを覆う銀髪を鬱陶しそうに流している事にあるのだろう。染めているのではなく、まさか”賑やかな日常"へ充てられたために白髪になり遂せたという訳でも無いらしい、そこそこ整えられた髪は冗談のつもりなのか、ゆるやかなウェーブを湛えてそれこそ女性のように長ったらしく伸ばされて否応無しに胡散臭さを盛り立てていた。そういう面でも、彼は人当たりの良さ・・・否、言い換えれば信用にすら値しないような浮ついたイメージだけを与える装いが、所謂御膳立てのための芝居が上手い。
4 さて、この日も誰かが例に漏れず他愛もない暇潰しと『例の店』に立ち寄る。車線に入る前に少し手前のダーツバーで恋人を残して車を降り、椰子の木陰を悠々と闊歩してこの僻地にたどり着いたのだろう。彼女らは・・・店を訪れる客は、陰気な笑顔でドアマンを勤め、愚直にドレスやケープを手に後を着いてくるこの不遜な店主を引き回して品定めをする内に、望まずとも自ら餌場の真中へ潜り込まざるを得なくなる。
そうなれば島の中でもとりわけ小綺麗に整えられた”張りぼて”はあっさりと悪意に瓦解し、『閑静な』観光地に構えられたブティックはその瞬間単なる”取引の場”へと変貌する。この小さな店は彼がとりわけ自然に振る舞えるだけの簡易的な舞台と言っても良い。哀れなお客はまず、入り口の扉へ何故か既に鍵がかかっている事に気付けるほど注意深く無かった事を悔やめない。悪魔の勧めるままに死装束を抱え、多くの場合・・・せいぜい試着室にでも”埋葬”されればあとは一生陽の目を拝むことはなくなるだけだ。彼が手ずから入り口のカーテンを閉めれば、それは外界との一切の完全な断絶をも示す事になる。ある時は壁に取り付けられた鏡が回転し、その奥の部屋に控えた”運び屋”がガッチリとあなたの口を押さえて隣の小部屋まで案内してくれるだろう。もっとラフな応対の時は、毛足の長い絨毯を貼った床が地下を指し示す矢印看板の替わりを果たす。彼ご自慢の”落とし穴”は、便宜上リフト式での輸送を可能にしているが多くの場合は無遠慮にマイナス三階相当の位置まで叩き落とされるだけだった。この店で最高ランクの持て成しを求めるなら、それは店主自らの手で”スタッフルーム”に蹴込まれるのを狙うしかない。
5 悪趣味の境地極まるギミックは、無論理性も美徳もなく手軽に『人質』をつくり出してはその日のうちに札束《チップ》を生む。しかし、素人上がりの人間がこれだけの大仰な博打を、それこそ小遣い稼ぎついでのようにも振れるのは偏に彼の無知からなるものだったのだろう。現に、彼の浅はかな無邪気さは考えうる上でのあらゆる死線《タブー》を打破・・・いや、首の皮一枚相当の危うさですり抜けている。当然、あちら側の世界の常識で考えても彼の行動は恐ろしいほど思慮に欠けた。発覚する事を恐れず、追われる事を考えず、そして巻き込むことに遠慮の欠片も抱かなかったために・・・彼の存在、彼の行った罪状は人の範疇を越え、『無かった事』と理解されていった。単なる厄介払いといえばそれまでだろう。逆に、こちら側の人間の言葉で言うなら『そんな恐ろしいことは有り得ない』といった甘い言い訳に過ぎない。しかし、臆病の針が振り切れれば、それは一転して既成事実へと姿を変える。彼は、結果的に巡り巡って彼を人としての認識から引き剥がした。
6 *+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*
7 「ハーイ、お兄さん。悪いけどここは男性お断り、妹だかお嫁さんだか知らないけど、プレゼントをお求めなら本人を連れてきて」
「ああ、野暮用を片付けたらとっととおさらばする予定だ。だが、支払いがちと厄介でな・・・引き籠りの人攫いをぶち殺してこいと直々のお達しだ。余所の国の女を見るや目の色変えて、片っ端から引きずり込んで半殺しにしてからオレンジみてぇに木箱にぶち込んで所構わず送り飛ばすって札付きのクソ野郎だとよ。グォイン・チャウチュケスク。覚え在んだろ」
「・・・・・・・うちの商品《マリア》は現品限りだもの、そこまで面倒見切れないよ。ちゃんとパスポートも一緒に送ってるけど何か?そんなに荷崩れが酷いなら、次は多めに藁でも詰めといてあげる」
「半端に暴れて覚えが無いってんならもう一つ聞く。金持ちの変態だか間抜けなゲリラの大家族だかへ売り飛ばすのに飽きて、足首や背中をメチャメチャに切り裂いてから元来た道へ放り出すとかいう悪戯を覚えたんだってな。お陰で朝のニュースは軒並みスナッフ・ショーの品評会だ。しかも、手前の身元が割れるようにわざわざ女共へ吹き込んだって気の違った台詞は・・・」
「『ロアーズ』にようこそ」
「都市伝説《ロアーズ》!死の商人!そうだ、何のつもりだか遂に開き直って、そんな目眩ましの名を巻き散らすようになった!だがその判断はムカつく事に大正解、この島じゃ赤ん坊以外はどっかしらでその巫山戯た名前を口にしてるぜ。クソみてぇな遊びでお前自身はある意味”どこの”所属でも無くなった。もうお前の一挙一動が事実を通り越してカルトな噂話になりつつある。ああ、確かに一晩持たせる仮面にゃぴったりだ。最高にイカレた、否、それを見越しての狂った所行なんだろうが・・・」
「久しぶりに顔を見せたと思ったらまたその話?ねえしっかりしなよ、兄弟《ブロゥ》。別にアンデットに職を移した訳じゃなし、人間に習って日銭は稼がなきゃいけない。可憐なお嬢様の悲鳴じゃ腹は膨れない燃費の悪さだ。毎日組織に振り落とされる夢に飛び起きて冷や汗をかくような哀れな痩せ犬が、ちょっと名前の広まり方が変わっただけでオカルトの世界に飛び込んだ事にはならない。何が怖い事もないよ、そのうちに、綺麗さっぱりにとは行かないが消えてなくなるぜ。だから周りはただ、面倒な事故にあったとしか思わない。天下の黒服《マダー・ブラック》が今更何さ」
「・・・・・こんな寒気のする冗談を言う日が来るなんざ思わなかったが、この際仕方無い。俺を、巻き込むな」
「そう、僕と十把一絡げで君も”仲間入り”してしまった事が恐ろしいんだよね?結局君の本題はいつだってそれだけさ。正体不明の怪人は、嘘か本当か素顔を隠した人身売買の商人と裏で糸を引く謎の男、そう、黒服!すてきじゃないか、僕よりずっと目立たない。勿論、良い意味で・・・・怒ってるの?どこかの御伽噺《フォーク・ロア》に片付けられた、そういう事になってしまった今、また自分がどこにどんな形で居るか判らない。それがどうした?そんな認識になってから、何か特別な力でも使えるようになったってのかい?下らない!いつだって、撃たれりゃ死ぬ普通の人間だろ。あのさ、この地面の裏側には元から僕たちが『居ない』事になっている国が沢山あるんだよ。積み荷に混ざって運ばれる奴、その箱へビール瓶か何かを数えるように伝票を一人二人と貼り付けてる奴、カウンターを挟んでは真面目くさってコインを跳ね上げ、昼間っから殺し合うような奴らは紙の中にしか生きていないと思ってるのがこの世界に、それこそ大きいのも小さいのもゴロゴロしてるんだ。”ここ”に居たってね。自分もその一人だった。神様とやらに中指立てるのを覚えても寿命は延びる。それこそハレルヤ!じゃないか。・・・僕と喋るの嫌い?そろそろ笑ってくれよ。何だったらもう一度言おうか、今更なんだ。もう自分さえ気付いていればどんな立ち位置になったって変わらない」
「ご高説どうも。吃驚するくらい頭に入らなかったぜ。クソ、眠くなってきた。今は道徳のお時間じゃないんだ、センチメントは打ち止めだな?お前が構わなくともこっちが面倒被る。安置の奴らがどう思ってようが関係ない、お前のやらかした馬鹿に腑を煮繰りかえらせてる連中が目を光らせて、さてもののついでとばかりに俺の懐まで突つき回してくるのにどう始末をつける」
「罰当たりめ。じゃあ逃げなよ。逃げたら?現に僕はそうしてる。狭い庭先を取っ替え引っ替え、適当な組織の名簿を借りて一番下に鉛筆のサインと頭文字だけの印を押す毎日だ。この島の空っ風に当てられれば三日で風化するような易い命の代替わりだよ。何ならうちに来れば?荷物を解く暇もなく住処を移す、くたばり損ないの蜘蛛みたいな生活だけどね。風来坊の僕が居なくなれば、入れ替わりにアンカーを任されてお縄を頂戴するのは組織と数珠繋ぎの末端なんだから、どうせこっちの心も体も痛い所なんか無し。今となっては綱渡りくらいのスリルが無きゃぁやってらんなくなっちゃったよ。ははは、それだって”本物”から比べればお遊び、お遊び程度の度胸試し。ぬるい世界の中で、みみっちい遣り取りに盤をいじりまわすしかない。でもお化けじゃないんだ、脚はあるさ。死ぬ気になれば死ぬまで何処へでも逃げ切れるよ。それこそ、煙のような噂の住人だからアシはつかないけどね」
「だからお前の話は聞いてねぇよ。いつ見てもベラベラ女みたいによく喋る野郎だな、それで小間物売り《チャウチュケスク》の矜持がシリアル・キラーの真似事だと?ユダヤ人のジョークはつまらないと聞いたが、全くだ。・・・・・チッ、おい何キレてやがる、その仰々しい獲物《アンティーク》を降ろせカマ野郎。面倒くさい奴だな、無駄に暑苦しい頭を風通し良くされたいか」
「僕だって僕の話をした訳じゃない。チンピラのケツ叩くのが仕事な君と違って考える事が山ほどあるんだからこれ以上容積を減らさないでくれる?
そんなに不幸がるなら、その愚痴るか泣くか煙草吸うしか能のない首から上を質入れ《デュラハン》した方が幸せなんじゃないの」
「そう吠えるなよ、刃物に目が眩んで振り回されんのはガキの証拠だぜ・・・まあ良い、興が削げた。シリアスはお仕舞いだ。これだけ無茶やらかしてもお前が変わらずクソッタレの甘タレな事が判ったってだけで、俺はピル・ショップに行きたい気分だ。つくづく来るんじゃなかったが、お前に泣きつく時点で俺も高が知れてたな。どの道、ここの空気に一度でも触れた奴は仲良くド底辺へ真っ逆様だ」
「喚いたり嘆いたり煩いね、君の方がよっぽどヒステリーだよ。巻き込まれたくないんじゃなかったの?ほんとこんな口から出任せで諦めるんだから単純って言うか、よく今まで全身揃って生きてるよね。・・・まあ、吹っ切れたんならそれはそれ。諦めて始まることもあるし、僕がそうだし」
「知るか。無い頭真っ白になるまで悩む暇が惜しいだけだ。ッたく、息が詰まる店だな、気が滅入る。お前は何時になったらこの古臭いクラシックな内装を止めるんだ?辛気くさいを通り越して墓場に見えるぞ」
「あー、うん、君が報告してくれた通り、大分名前が流れたみたいだからここは一旦引き払うよ。中身は・・・考えてないや。君が決めて」
「気色悪い事言うんじゃねぇ、お前にこれ以上関わったら、そろそろ本腰入れて運命の女神様に呪われるぜ。そんなに転職が好きなら次はチーズケーキ屋 《ポルノ・ストア》でも開けば大繁盛だ。まあ中身は肉屋だろうがな」
「フィルムは好きだけどブルー・ジョークは嫌いだって言ったでしょ。で、そっちはまたケチなマフィア崩れの荷物持ちで頑張る訳?」
「他に何がある。ムカつく新入りは頼りにならない死に損ない《ジャカランタン》で、俺は相変わらず三下だ。だが、少なくともこの腐った地面と汚ねぇ空を毎日拝む必要は無くなるって事もまた事実だ。待遇に注文を付けられた身分じゃなくとも、それだけで寝覚めもマシになるってもんだ」
「じゃあ僕の名刺でも持って帰って。後日、お邪魔させていただきます」
「鬼《グォイン》なんて雑な偽名が通る訳ねーだろ、クソ餓鬼」
「そこはそれ。当然君の口利きで」
「ンなもんは、無ぇ」
********
夕刻の島に陽が陰る。夜半へ近づくに連れ、この店だけは示し合わせたように、この地の常識としての”稼ぎ時”を避けて早々と帳を降ろす。万が一を鑑みてのアリバイ作りに似た小細工でしかないが、ともあれ彼の店は朝日を浴びるまでの間、人形のように体裁を整えて息を潜めた。しかし、また持ち主が訪れるかどうか。いま裏口にかけた鍵を側の排水溝へ放り捨てた店主が明日の準備をしに帰ってくる可能性は、どうやら限りなく低いらしい。
この悪徳の街は、見る者が見れば朽ちた基幹《アジト》の寄せ集めに他ならない。差し引きの天秤から延びた支え一本に、不格好な枝を幾重にも張り巡らせて立っている地盤。夜毎、”取り分”を量り間違えた無頼者《ジャンキー》から受け皿の外へと転がり落ち、眠れない狼が銃工房《ガンスミス》の看板の前で安酒に溺れる。鋼の爪が叩くのは、やがて撃鉄を求める銀の弾丸《ビス》か。いずれにせよ、『彼ら』は地を這うように生きている。時には、自身の仕掛ける罠《ジャック・ポット》に似た落とし穴の地雷原を駆け抜けるような真似も平然と取るだろう。この日、店仕舞いを――――慣れた形であっさりと持ち場を捨てた新米の殺人鬼は、普段と変わらずステッカー貼りのトランクをひとつ用意した。そして、悪目立ちする銀髪がキャップに押し込まれているかをガラス戸の隅で確認すると、今度はもう振り向かなかった。足取りも軽く、『天国に一番近い島』でのバカンスには少々似つかわしい黒ずくめの男を追いかけに向かって走り出す。その姿を、「CLOSE」の文字だけが見送っていた。
*****
「で、そろそろ君の鈍くささに苛々してきたんだけど、プロポーズとか流すタイプ?さっき言った、逃げなよっていう話の後のあれ、本気だよ」
「・・・・・・・・」
「あーのさー」
「何だよ・・・」
「吹っ切れついでに僕と組まない?嘘から出た真実になって、今度はいよいよジャック・ザ・リッパーの仲間入りだ。何だって身軽な方が良いに決まってる・・・あと、正直そんなに背中を任せられない相手ってのが相場だよ。どうせ僕、君の事そんなに好きじゃないし。晴れて名実ともに『ロアーズ』として大っぴらに動けるんだから、そうなったら景気づけで少し東の方に行きたい。この島を出れば、それこそどこかに僕らの同類が見つかるかも知れないしね」
「勝手に行って相打ちで死んでこい。俺にゃ、『不幸中の幸い』を山ほど背負った大バカ野郎の踏み台にされるオチが見えたから御免だ。今だってそうさ」
扉の外は、黄昏時の空だった。透けた手の平の向こうに暮れる陽を垣間見ながら、動けなかった男のことを考える。『あれ』は、流れるままに存在を換えていく事よりも幸福だろうか?あるいは、自分自身もあのなかに"可視の音"とでも銘打たれて留まり続ければ、消え失せる恐怖からは解放されるだろうか?
(‥‥‥考えるだけで頭痛くなってくるな) フード越しに髪を掻き上げれば、疾る夜風に煽られて身体が風を受ける。物理法則の通用しないこの状態が、見た目の通り全くの自由であるのかふと思案して結局は止めた。それは、あの店の主人が既に答えを出していそうだから、というささいな負け惜しみからだった。 (ロイエ独白(+白猫))
悪意の対流したような空気の中に、一筋甘い香が漂う。足下へどうにか届く街頭の明かりに、子猫の尾が揺れる幻覚を見た。「(・・・・・子供はこわいからねぇ)」 お互いの領分へさえ入り込まなければ無視が性分。自分も随分甘くなったが、あの仔を誘い出すのはさて何だろうかと、考える位なら良いだろう?
氷を突き立てられたような悪寒は今更珍しいものではない。お得意の逃亡劇に、少々のスリルが混じるだけ。ただ、彼女の抱く冷たい愛はやがて、自分の持つどす黒く上澄みの泡のように軽薄な熱とこの小さな手が凍り付いても握り締め続ける執着によって薄く頼りなく、鋭い刃のかたちへ変わっていくだろう。 (グォイ独白(+嗤市))
硝子の天窓を設えた図書館の一角が、ふと蒼い陰に満たされた。水底に注ぐ陽光を背に受けて、白い鱗の乱反射だけが時折書物の背表紙に跳ねて砕ける。異形の魚は、はるか下方にちらと見えた青髪の王に向かって暢気に手を振ると海流の果てへ夢のようにに消え去り、後にはマリンスノーに混ざって銀の粒子だけが降り注いでいた。 (アノーマリー+オルカ)