細い声を上げて、呼び止めた。書庫へ向かう足を止めて振り向けば、あの邂逅の日より数段力無く伸ばされた腕が手招く。
薄く辛うじて開かれた眼、解けて消えそうな白い眼差しは久方ぶりに彼が死のきざはしに近づいた事を表している。消えるでなく、絶えるでなく、感じるのはひとつの命の対流が抜け出す感覚。すぐ傍を渦巻き、あるいは包み込むように寄り添う自身は揺らぎながら認識の縁をなぞるようにしてこの小さな部屋に積もっていく。それが例え、彼の存在自体には何の意味も成さないとしても。
「いつもの発作か、水でも持ってくるから待っていろ」
「大したことないからいい・・・手、貸して」
手のひらと、それからもう少し上を握り込んでもこの状態の彼が温度を受け入れることはない。爪を立てる程の力が無いのか、あるいはその必要もないと感じたのか物言いたげな表情でその甲に冷えた指を何度も這わせる。
「眠るときの感じがずっと消えないんだ・・・後ろから体を引かれているようで、どこに落ちるかわからないのに」
「お前にその観念が通用するかは断定できないが、所謂虚脱の兆候に近いのかもしれないな・・・魂が抜けかけていると言えばいいか」
「何かに捕まっていないと本当に戻ってこられないと思ったんだよ。全部僕のなかなのに」
「なら、寝台の柱でも掴んでいればいいだろう」
「見えたけど・・・毛布も窓も何もうまくわからなくなってるんだ・・・・・ひとつきみの手ははっきりあって」
「・・・・・・眼がおかしいのか。此方を向いて起きろ」
抱きかかえるようにして座らせれば、気配でしかなかった彼の意識の破片が燻るように溢れ出すのを感じ取る。水晶を何度も溶かしたような世界に化石となって残り続けるかの国。枯れた森に囲まれたその地は巨大な谷を有し、象徴であるはずの城はその最下層にひっそりと、埋もれるようにして今も眠り続けている。
この男は未だ霧の中に居る。
「・・・・・キーティイを探さないと」
「何と?」
「友達なんだ・・・キーティイはぼくの事を知らなかったかもしれないけど、友達なんだ。小さいとき・・・霧が昼間だけ出ていたくらい昔・・・旅の人がくれたんだ・・・・・何でもしまっておけるって」
「・・・鳥籠、か?」
「持ってた大切な物を色々入れて、碧い硝子の針とか・・・鏡で出来た石とか・・・最後に、ぼくのなかから取り出してあげたのがキーティイだったんだ・・・籠のなかに入れて、初めてはっきり見えた」
「・・・・・」
「鳥みたいな名前ってからかわれたけど、キーティイは何でもない・・・少し、見た目は魚に似ていたかもしれない。青と金の尾で、その籠の扉でも石づくりの壁でも通り抜けて、よく僕の髪を撫でて遊んでいた」
「それが、あの場所に置き去りのままという訳か」
「あの子はじっとしているのが嫌いだと思う・・・森までならわかるけど、その先に逃げたらもう駄目なんだ」
「そうか・・・・・」
冷え切った腕が長い袖から覗いて空を掻く。肩口に顔を埋めるようにして、それでも未だ呼び寄せるように、指が、その瞳がどこか遠くの幻灯を追いかけている。砂時計のように、閉じこめたままの自分自身は形を変えながら追憶の底に惑う。失われる物など何もない、その身が。
「城のなかにあったのなら、それはまだ彷徨い続けているだろう・・・あの谷の最も深い場所で、それより上へは泳げないままお前の帰りを待っている筈ではないか?」
「行かなきゃ・・・ね」
「その時は手伝う。もう眠れ」
みどりの髪を散らせて、少し不満気に・・・つまりはいつもの様子に戻った青年は横たわったまま、ルーニヒが出ていくまで古い伝承の一説を囁いていた。いつかの夜、その細い肩が軋む程寝台に縫い止めた、あの時のように。
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