(※ この話は以前投稿したお国ったーの総集編、ならびに合同誌として掲載した作品の全文になります。あちこち設定や名称が違いますが、それでも大丈夫でしたらスクロールをお願いします。)
ひとつ、四方の国を削いで蒼樹の森が陽光を湛えて在った。濃霧に凪ぐ細い枝は水の粒を食むように折り重なって境をつくり、骨のかけらのような砂地に渓谷の面影を残して重い黒土を抱く。その大地はもう踏み固められることもなく時折、空を隠して降り注ぐ霜雨に羽根を奪われた小鳥や哀れな翅虫を飲み込んでは白濁した時のなかで季節を忘れたかのように沈んでいた。
ひとつ、その奥地に古城が在った。凝り固まった石英の結晶のように白く、みな底に降り積もった鱗のように儚い。一国の中核にしてはあまりにも頼りなく、しかし太古の昔に滅び去った遺跡を掘り起こしてその見えない軌跡を崇めるかのように、ほかのどの建物よりも大きいというだけの特徴しかないその簡素な建造物は谷の底へ風の吹きだまりのように埋もれていた。
ひとつ、そうして国が在った。様々な地域への経路を有していたそこは、次第に僅かな陽の射す瞬間を縫うようにして積み荷を載せた飛行艇が飛び、風を取り込んで走る船が造られ、霧を裂いて空を駆ける駆動機を背負った運び屋が町を賑わせることも多くなった。文化を持たない小さな郷は、代わりに他国の歴史の編纂を追うことでささやかな世界のきざはしを得た。
ひとつ、そうして国が居た。
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傾ぐ陽は雲母の破片を削ぎ落とすように白み、その下に張り巡らされた天穹を塗り込めていく。日暮れが迫っていた。
煉瓦造りの小径を伸びる影だけがもどかしそうにそこここへ揺らめくなか、その暗がりに囲まれるようにして蹲った者が翼を開くように腕を差し伸べた。きゃあという幼い喧噪、何か特別なものを覗き見るような、すばしこく逃げ回るいきものをつま先だって追いかけるような秘密めいた高ぶりをふつふつと成す輪。色めき立つ嬌声を抑えながらもひそひそとさざめいてぱっと中空に散っていく。そんな中でも異質の響きを持って、もう彼方へは在ることのできない何者かが語らっているのだ。
どこか夢想的で曖昧な口調。つたない言葉と消えかけそうな声音、詩編のように滔々と詠われる景色が示すのは、一つの国の亡つるありふれた叙情。嘯くことなく騙ることなく、時の流れを削り落とすようにしてたった一人の瞳の中で繰り返される詞である。
どこにも留まれなくなった者たちは、やがて殻と見なした世界を抜けてその眼が見る空に落ちていく。ゆるやかに衰退していくその国の末路に、自らの手で幕を引いた彼らを青年は英雄とも無法者とも付けず、ただ「皆」と呼んで続けた。
「・・・・・もともとは様々な国から集まった人の暮らす場所です。
やがて皆は、もっと素敵な新しい国を作るため居なくなりました。誰もいない国を別のことに使おうとする人、その人たちを自分の国のために働かせようとする人。でもそのために何よりも無くさなければいけないのは、その国を治めている王様です」
城へ押し入った反乱軍に制圧されかけたところを隣国の王が止めに入り、そうして今の自分はその国の王に仕えているのだという言葉を付け加えて、町の子供達にせがまれての長い長い物語は黄昏の闇を誘うようにようやく終えられた。
口々になまなましい戦いの様子を描いては興奮を捲し立てる子供、歴史の変革を思い浮かべ騎士団の真似事に興じる少年達は武器を持たぬ手を茜の雲に突き立てんと高く振り上げる。
悲しそうな面持ちでただ駆け寄ってきた少女は、同胞であり家族であった者たちに裏切られた悲しみを感じ取ったのだろう。ひとりきりの世界で死を待つなどという発想は、しかし彼においては幻想でしかない。取りすがる小さなからだ、その情景を振り払ってやるように頭を優しく撫で、変わらず穏やかな口振りで家に帰るよう促していた後姿を、不機嫌に見つめる者が居た。
「・・・・・・・・・口から出任せもここまで来れば一芸だな」
「うそは言ってないよ。あんまりね」
「心の臓を打ち抜かれた躰で、人の袖口を曳いてまで呼び止めた行が無いようだが」
風の音を聴くかのように、静かに髪を揺らして件の青年が顔を上げる。蛍火に似た色は露に濡れる草に近く、片側へ柔らかく結われた上に金の飾りをいくつも挿して遅れ毛を長く降ろしている。気だるげに少し閉じられた古翡翠の両眼で、迎えに来た相手をやっと見据える。石畳の一段高い縁に腰掛けて小首を傾げた様子はおどけていると表現するには脆弱に過ぎるだろう。どこか生気の抜けた表情に暖かみはなく、朝靄に似て白い肌を包む奇妙な衣は空気を含むかのようにゆるやかに纏い、一方繊細に編み上げられた皮の留め具は彼の線の細さをかえって際立たせていた。
不遜に声を掛けた男の模範的な軍装や、先ほどまでは広場に溢れていた子供達のそれと比べても格段に古めかしく場違いである。
「閉じたままあの谷の果てにお前の国が残っていること、住民は全てお前の目的の為に放たれたこと、未だ何も語らないつもりか」
「ん、まだ名前覚えてくれないんだから」
「今となっては資料のひとつでしかない。ノワルエラ・トゥワイス・エイダス・アムネジア。お前はあの日に終わった筈だった。・・・・・謀反の銃弾を受け、城に眠っていたままにしておけば今頃はあの化石じみた森と共に正しく骨に還っていたのかもしれん」
***
ガス燈に照らされたフロアも、鉛の色を通す硝子窓も、その閉塞的な遍歴を色濃く感じさせるとはいえ仮にもかつて傾城の憂き目に晒されたとは思えないほど静かに整然と存在し続けていた。
隣国へ暴動が拡散し、複数の場所を巻き込んでの抗争となれば民間人の諍いが原因とはいえ無視の出来ない被害をもたらすことも予想されるであろうと中立国のひとつが調査と仲介に乗り出したのが二日前。子供の御伽話になら迷いの森だの人食いの谷だのと囁かれるその土地も、立ち入ってみれば取り立てて良好といえる環境ではないものの進行自体に何ら障害をもたらすものでは無く、荒れ果て枯れ尽きた土壌の上で生きていくことが困難になったため国を捨てるようになった、という事例は考えにくい。武器を向けるどころか抵抗の意思も見せず、どこか安堵とそれから幾ばくかの悔恨を匂わせる表情で口々に民が交わす古い史歴の一節は、這うように路地を流れて国の終わりを示した。
多数の靴跡や切り裂かれた後のある暗幕が目立つのは、それだけ際立った騒動の跡が見られないからだろう。冷え切った王宮に立つ二人の門番は、むしろこの介入を待っていたかのように一団を迎え入れ、静かに目を伏せ言付けると錆びも染みもない武器を引いて互いにその場を去った。途中、従者らしき黒髪の青年も見かけた。問い詰めようと声をかけるより早く、亡国を讃える言葉を口早に呟いたあとどうか主を静かに眠らせておいてほしいと告げて出て行った。静まり返る廊下、もぬけの殻の広間。探しものは石畳の下に息を潜めていた。地下の小部屋、この地の風土を考えれば快適とは言えないであろうその閉め切りの部屋には、国王が用いていたと思われる調度品がしんと弾痕を受け止めもう仄かになった硝煙に濡れていたのだった。時計のない部屋は牢よりもなお厳粛に、運命の日のままの姿で開かれている。その古書のような古びた空気の中に唯一色彩を置いて、疵を負った無人の玉座の側にひっそりと座り込んだまま顔を伏せて凭れる男が、この内乱唯一の明確な犠牲者にして死者であるとされた若き帝だった。
いや、それは鞭と杖とを携えた支配者だっただろうか?
***
「・・・・重要参考人として極秘裏に連れ帰った。その岐路の途中、お前は蘇った・・・・・・いや、変容したと言ってもいい。治癒の早さや体力の回復も常軌を逸していたが、何より半死生人を扱う羽目になるとは思わなかったぞ」
「やりたい事があったからねー・・・死んでも大丈夫かは確かめたこと無いけど、こうなればいいと思ったら大抵はなったよ。昔からずっとそう・・・何とかなりそうな予感がするときは、そうなった事にして考えれば良いんだ。回り道しても」
「先見に富む策略の士、理詰めとそれに勝る戦術は人民の先導を最大の武器とするお前の得意とする方法だ。だが、かの国は『象徴』を置いてしまったことで完成しきった。万能という訳ではない、あらゆる粋を極めたという意味でもない。ただ、理想とされるあるべき型が出来上がってしまった。もう切り崩すことも、組み上げることも出来ない脆い楼閣だ」
頑ななまでに言葉を探る。彼を示唆する一言は、言ってしまえば謎掛けの問いのように釈然としないままただの言葉で終わるだろう。また、彼を例えようと模索すればしばしの思案の後やはり諦めたように一つ浮かぶ物は決まっている。この男は魔性だ。
六月の宵のなかに、冬の死骸のような枯葉が一枚石畳を噛んで、やがて飛ばされていった。
・・・皆に気を揉ませる道ばかり選ぶことになった。つらい選択だっただろう。彼らは一度完全に僕を捨て去らなければならなかった。多くはその本当の意味に気付いていなかったかもしれない、それでもいい。国として一度終わるつもりだった、そうしてこの世界のいっさいから外れたあと時間をかけて見届けるつもりだった・・・
出会ってからひと月経つかという頃、件の青年がひどく衰弱したように見えた時期があった。医者を呼ぶ事を拒み、自分だけを部屋に招き入れて彼は託のようにその身の上を語ったのである。
薄弱とした鼓動が伝わってくるかのような声音。
・・・君は僕のことを機智の指導者と呼ぶね。生まれはともかく、これは何も特別な意味を持たないささいな癖みたいなものだよ。ときどきね、何ともなしに自分がガラスや氷の薄い壁を一枚隔てた世界に経っているのが見えるんだ。それは遠かったり暗かったりする。何日も、季節を跨いでもまったく見ない時もあった。気まぐれなものだよ。それを漠然と、“自分が望む場所に見ようとする“だけなんだ。君たちがここではないどこかを空想する、それと同じ。運命の糸を束ねる手を持つ獣の精霊が人々を見守っている、なんて物語を聞いたことがあるけれど、そんな大層なものじゃない・・・
・・・皆を反逆に仕向けたと言えばそうなる。皆がすべてを手放して、拠り所のない場所として、そうして僕は死ねる。死んだあとの僕は死んだまま居続けられることになるだろう?はるかな未来に呼び戻されることがあればそれでいい。いつかほんとうにいなくなることがあってもかまわない。”僕“は・・・僕なら、初めから何も無かったという事にはならない。でも、少し、僕の眼が鈍った。しかたないね、もうその役割を果たしてくれていた皆は離れつつあった・・・
今現在の彼の瞳にも、もう新しい世界を望む事は難しいだろう。紡ぐ言葉のあわいに漏らす吐息へ混ざり、持ち合わせる事のない魂が対流となって抜け出すかのような感覚は夢想でしかない死の気配となって何度も何度もその身に降り積もる。どこへも行かれないその身体は、何一つ変わらず谷底の古城、冷たい森を追憶のなかで彷徨う時の死体でしかない。まどろみのゆるやかな喪失感は墜落する瞬間の空虚に似て、しかし彼を蝕むに足りないまま霧の水底をより白く濁らせる。
この男はそれでも眠り続けることを選んだ。
・・・皆がそれでもまだ僕の元に確かに居た、その時に、僕から完全に切り離された子がひとり居たんだよ。ああ、君は一度遭っているね。不思議な子だった。瞼を閉じた状態で誰かが傍に立っているようなところを想像してくれればわかるかな。自分の見える場所に認められない何者かがさぐり歩いているような感じだった。いや、それだけその時まで皆が僕の傍に居続けてくれたから余計にそう思うんだろうね。やがてそれに引きずられるように皆がいなくなると、今度はその時まっすぐにここへ戻ってきたんだ。見えるようにじゃない、でもこの腕の中に帰ってきたのがはっきりわかった。こんな力だから。持ち主の居なくなった僕を見つけて駆けつけた。僕の眼を覗き込んで、身体を先に殺したんだよ。
中と外がバラバラに死んだって事になる。こうなる事になったきっかけ。あの子がそうしようと思ったかは知らないしそれはとりたてて大切なことではないよ。いま僕の身体は、あの場所に居ない僅かな人が時々この血を暖めてくれているくらい・・・
「あの郷の再建か」 感傷的な回想という概念を、この国の王であり彼の一応の保護者でもある男、ルーニヒは持ち合わせない。感情的な推察をしばし巡らせ、自身の中の非常識を一部なりともねじ伏せる時間をとっただけ、だろう。何度も繰り返した問いを、今度は追随を含めず再び投げかける。
「それは皆がやってくれるよ・・・・・・・今日は駄目みたいなんだ。向こうまで馬車で帰りたい」
生前の頃より骨の浮いたであろう長い指で左胸を示し、繰り返された答えを返して何でもないことのようにまた青年は微笑む。
半死生人・・・撃たれて止まったままの心臓を内包したまま肉体が先に回復し、鼓動を失った死者の体と血の流れる正常な人としての身とを行き交うようにして生きるようになった、というまるで冗談のように括られた結果が、得られた唯一のデータだった。
常識では考えられない。今までも、そしてこれからも前例などあり得ない、神の奇跡を持ち出しても起こり得ない現象として、ノワルエラの存在は研究の観点にせよ保護の対象にせよ、ひとときの間彼の庭を騒がせることとなった。彼が比喩や誇張でなしに、信じられることではないが「国」そのものであったがために為された所業。ひとの姿をとりながら、君臨し続けることを唯一の能力とし、悠久の時の中で消えることなく姿を変えて在り続ける象徴。
既に何もかもが終焉を迎えた物語の中で、彼は未だ、この未知の存在の指先にも触れることが出来ていないのだろう。
あの岐路の途中、と先程口にしたが、あの日捜索部隊が城に潜入した時一度彼は目覚めていた。王は確かに手を伸ばした男の袖口を掴んだ。数奇な偶然の連鎖を受け、水の波紋のように輪廻を繋げようとしたのかもしれない。彼は、いま一度生者を呼ばわったのだった。ただ、崩れ落ちそうな骸の頬に、薄い笑みを浮かべて。
「まあまあ邪魔には成らないから良いじゃない。ほら、なかなか珍しいよぉ国の生け捕りなんて」
「くっついて歩くな。それにその戯言はいい加減止めろ。お前の理想とやらの純度をいたずらに鈍らせるだけだ。見苦しい」
灯の落ちる夜の街並を、乗り付け場に向かう二人がいた。
一方の寡黙そうな男は、異形を相手にしているとはいえ共に国を担う位置に立つ者であるからか(語弊はあるが)、眉根を寄せた表情は出逢ったときと変わらず冗談も軽口もはねつけて厳しいまま。もう一方の風変わりな青年は、謎めいた瞳に至って気楽な笑みを浮かべて男の片腕にとりつくようにしてついていく。握りこんでやっても体温を受け入れないその冷たい手のひらや、時折見せる憂いの表情の意味を見かねて振り払うようなことはしないものの、好奇の視線を受けては鬱陶しげに歩を進める為、時折引きずられるように乱れる歩調でどこか青年は踊っているようにも見えた。
「何度でも言うよ。いつか沢山聞き過ぎてその言葉の意味も忘れるまでは言う。何度でも、僕は死んでいくだろうね」
そうなってくれないとお話が始まらないから、と微かに喉を鳴らし、聞かせるともなく、自戒を込めるともなく呟く。
大きなランプを取り付けた座席へ先に乗りこんだ男が振り返ると、相変わらず何も考えていないような笑みを浮かべた青年は何かを期待するようにその外で居直って微笑む。
街燈を受け黄金色に染まった髪が夜風に凪いでいる。
溜息をかみ殺し、もうすっかりお決まりとなった面倒くさい習慣をつけてしまったことを早くもやや後悔しながら、早く入れと渋々差し出してやった片手にそっと指先をのせて、ようやくノワルエラは転がりこむように馬車のなかへ飛び込んだ。
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